昭和51年11月20日 朝の御理解
御神訓 一、真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ。
眠ってるとを起こしなさい皆んな。一、真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ。と。真の道をいけばと仰る真の道が分かり、真の道を歩いていけば心眼は開けます。その真の道が分からんので、皆んなが右往左往しておるわけです。
真の道が分かれば自ずと心眼が開けます。いわゆる心の眼が開けます。心の眼がが開けるところに難儀が解消するのです。それは難儀と思うておったそのものがその場で解決するということはないでしょうけれども、難儀と思うておった事が肉眼で見る世界が難儀です。心眼をもってその難儀と思うておった、様相というか事柄というかね、それを見る時に、それはもう神愛としか見えないからです。
だから真の道を行く人は、真の道を分かり、真の道を行くことになれば、自ずと肉眼を置いて心眼を開けるのです。そんならその真の道とはどういう道かと、いうことなんです。真の道を辿らせて頂けば、真のおかげが受けられると。私のいっておる事は真の事だ、真の信心だ真の道だというておっても、真の道も開けず、真のおかげも頂けないとするならばそれはおかしいのだ。
そういう意味で私は今合楽で言われておる、合楽理念を基にして心行に本気で取り組ませて頂く生き方を身に付けて行く。このことはもう絶対の真の信心であり、真の道なんです。だからその真の道それを本気でいわば行ずる気になる。行ずる気になればそこの真の道も開けてくるだけではなく心の眼が開けてくる。心の眼が開けてくるところに、信心の尊さ。信心を頂かなければ人間の真の幸福はありえない。
昨日は鳥栖の上野さんのところの孫が、五つになります息子がおり、たけお君という。丁度14日の、14日、15日の、あのう七五三のお礼に出て来た日ですから4、5、6、7、8。一週間近く一週間前になる訳ですけれど、遊びよってからその百円を硬貨口に入れとってから飲んでしまった。途端に苦しみだして大変なそれからお願いに来ました。ならでおかげでまぁどうかせん、どうかせんでもてお願いしたらおかげ頂くよと。言うておりましたら、毎日毎日そのおかわを持っていってさするけれどもでらん。
おかげで昨日出ておかげを頂いておる。まぁなんともなしにお爺さんは信心がないから、もう大変にまぁ心配しとったけれども、親先生がそういうて下さったからと、そしてその後その幼稚園にも行くしその有り難いですよね。まぁおかげを頂いてもうそれこそ、その百円硬貨を押し頂いて神様にお礼申し上げたと。いま日田から朝参りが今続いておるのは、竹内さんだけでしょうけれど。昨日、昨日一昨日、私が一昨日でしたかね、あの体が調子が悪かったのが、おかげを頂いてある事が分からせてもらうた時。
体がスーとしておかげを頂いたというお話を致しましたね。そのスーとしておかげを頂いたという事を聞く途端に、ご自分が大体風邪で大変気分が悪くて、お参りが出来んようにあった。けれどもまぁ朝参りをして、寝てそのスーとといわれる時に途端に、自分のその風邪の具合もスーとおかげを頂いて、詰まっておった鼻まですとすとするようになったという。まぁその事がまぁお話を頂きゃ頂く、頂き有り難い有り難い、変わる道すがらも有り難い有り難いで、本当に神様のおかげというものがこんなもんだろうと。
おかげで昨日もうおかげで、もうあれっきり風邪の気がなくなってしまいましただけじゃない。帰って驚きましたことは、私は二十歳くらいな時分から足にこぶがあった。帰って見たらそのこぶがなかげな。富永先生がそうでしたよね。小倉の。大きなこぶが右のここにある。白衣をつけられるのに大変それが邪魔になるというのが、あぁいう私はご本部参拝をする日に久留米の駅頭に、夫婦で送りに見えてそのことは金光様ちゅうてお願いしてきますよと、言うてご本部から帰ってくる時にはもうこぶはなかったって。
梅林寺の前に床屋さんがある居りました。そこん床屋さんがそうでした。今おりませんけれども、十日に一遍ずつぐらい私の頭をつんでくれる。自分で箱やらもこしらえて中にいっぱい、その専門的なあの散髪道具を全部お供えして、してやってきてくれよりました。その人がやっぱり右腕にこぶがあったんです。もう満員バスの中でその荷物を片一方に下げて、それから片一方に吊革ばこうやってもっとった。あの吊革をね。
さぁもういわれもまいて一杯なんですから、もう立ってずっときよったって。当時の椛目でしたがね、椛目に降りた時にちょっと見たひにゃ今まであったこぶがなかそうです。確かに善導寺まではあったがというてから、いうて確かに善導寺まであったとが、本当にこぶとり爺さんじゃないけれども、そんなおかげ頂いちゃるです。又清さんの方もそんなん。もうそれこそ有り難い、有り難いで帰らせて頂いたら、二十歳時代からあったそのこぶがね、取れてもう跡形もなくなっとるというのです。
私は真の道を本当に分かろうと志、いわゆる真心の分かろう。真心とは真心と。真心の道真の道を本気で分かろうと、意欲して信心を進めていくところにです、真のおかげが頂ける。もう医者でも薬でもどうにも出来ない、おかげを受けられるんです。昨日、日田の森山さんが、一昨日お参りをしてきて、あんなおかげを頂いて、そしてもうそれこそ医者でも薬でもどうにも出来ないほどしの痛みは、一晩のうちに取れた。
明くる日お礼に出て来て、そのあくる日出てきませんから、どうしたことだろうかと思うておったら、昨日丁度朝の御祈念が終わってすぐ後に、坂本さんと三人でお参りしてきました。ただし昨日はもう本当に今まで痛い苦しいのが、嘘のように治ってしまっておるのにもうもうただ感激、もう喜び一杯でね。それ以前に転々として病院を替わって、苦しんでおった時代に同じ病室で、同じ苦しんで難儀をしておる人達に、昨日は話をして回ってお参りが出来なかったということです。
一日のお参りでそのようなシャープなおかげを頂いて、その喜びがあくる日になっても痛まん、あくる日になっても痛まん。もういよいよその有り難さを自分の転々としておった病院に、同じ同室にベットに横たわっておる人達の事を思うたら、もう一日歩かずにはおられなかった。昨日はそんなわけで、もう皆んながその辺のところがあるなら、一遍どうでんこうでん連れて参ってくれということだというわけなんです。
これは昨日は、¥先日広川の町長選挙の時に、石井清之介さんの奥さんのお父さんが、事務局長をしてられる関係でお願いに見えた。町長候補の人もそれから四人の息子達も、毎日、もうそのお父さんの為に毎日参ってまいりました。でもう大変おかげを頂いて、まぁ当選のおかげを頂いた。神様からお知らせを頂いておる通りに、確かに毎日のお礼参拝をさせて頂いた時に、毎日来るたんべんにおかげに一歩ずつ前進、というお知らせを頂いて、その日は祝ということを頂いた。
だから明日はもう、当選御礼のお祝いと私は申しておりましたが、その通りやっぱり当選のおかげを頂いて、もうそれこそまぁおかげを頂いたわけですけれども、それに関連して家に問題が起きた。長男がある大きなかいひらかわの、にある大きな会社に勤めて、まぁ長男が専務かなんかをなさしておるそうです。その石井の嫁あの石井清之介さんの嫁さんの兄か弟になります。昨日はそのお父さんとその本人とそれから清之介さんと三人で参拝をしてきまして、実はもう困ったことになっております。
その選挙が関連しとる。というのが自分が勤めておる社長が、その前町長の事務局長しとった。それにあんたんところのお父さんは、今度はその反対派の方の事務局長をしとった。まぁいうならばしのぎをけずってまけたもんだから、べつ当りに当たってもうその場におられないような、その状態になってもう息子は辞めるという。そげなこついわんでん一遍合楽の金光様にお願いをして、教えでも頂いてからなら腹決めろというて、昨日参って来たわけです。
私はその事を、神様にお届けさせてもらいよったら、草冠に化けるという字ですかね、化するの化です。それをあわせると花という字になりますよね。草冠に化するという字ですから。だからこれは一つねそれこそ人の噂も75日というが、そういう例えば問題が問題がであるのだから、暫くしよったら向こうも考えるようになるだろう。そしてその自分が勤務勤務状態が悪いことを、その指摘してその辞めてくれと言わんばっかりに、第三者を通して言ってきたわけですね。
だから本当にその勤務状態がその悪いと指摘されて、見てみるとですやっぱりこりゃ本当に自分が改まらにゃいけんという気持ちで、いわゆる改まらせてもろうて、そしてばりばりやる気にならせてもらうたらです、それは飛んでしまいますよと。自然の中に。もうここで選挙運動してこうなったからもうこうして辞めたと。あなたの運命はもうここで中断することになるよ。ここは辛抱し抜かせてもろうて辛抱しぬくというよりも、その忠告を受けたことを、それになにかと腹かくのじゃなくて。
はぁいわれてみりゃなるほど、自分の勤務状態が悪かったところを気付かせてもろうて、改めてばりばりいっちょ一つ働きなさいよと。人が何というたってかんまん。そうしたうちには、あんたでなかなきゃならんということになってくる時に、一つのそれが花と言う字になって行くんです。人生のいうならばその花と言う様な時期も、ここのところを通りぬけなければ花にはならない。まぁそれを頂いて大変元気が出たような風で帰りましたが、私の言うことを実行するかどうか分かりませんけれども。
私共が段々おかげを頂いて、本当にこれが真の信心である。又これが神真の信心であろうかと思われ、それを信ずるところを行じて行く。今合楽でいわれておる合楽理念を土台にして。そして今まで疎かにしてきておった、それこそこうする事が本当だけれども、しかもそれは、子供でもなそうと思えば為されることを、四駄五駄にして来ておったということ。そのことを一つ本気で取り組ませてもらうことの為に、いよいよ心行を密なるものに、していかなければいけない。
心行が心の中にそれを心掛けさせて頂くところに、そりゃ今までやろうと思えば子供でも出きるようなことなんだから。「成せばなる、成さねばならぬ何事も、成さぬは己がなさぬなりけり」もう大変厳しいことのように思うておったけれども、成そうと思えば子供でもなることを、実意丁寧を改良のも甚だしい有り方。それはいくら合楽理念をマスターしておってもです。それはここ三十年近くそれで合楽はおかげを頂いて、今日になっておるけれども、それだけでは本当のおかげになっていなかった。
だから今まで稽古してきた、成り行きをいよいよ大事に尊ばせてもらう、大事にさせてもらう。成り行きを願いながら、全てのことに御の字を付けて御事柄として受け、御物として受けて行く姿勢を段々つくって行くと同時に、いよいよ寛大の寛の字を持ってです、起きてくる全てのことがです、自然に起きてくるその働きを、宇宙の宇ですウ冠ね。天地の親神様の御働きとして見るという生き方を、段々身に付けてくるところに、心は嫌が上にも広う大きく豊かになってくる。そこに広い豊かな大きな心が生まれてくる。
その広い豊かな大きな心に、それこそ降るほど降るほどにあっておるおかげを、受けとめるんだけれども、それが何処からか漏っておったという感じが、ここ二十数年間の合楽の信心じゃあったということに気付かせてもろうて。いよいよ水も漏らさんという信心を心行に切り替え。今まで成そうと思えばなさた、いうなら簡単なことなんかを疎かにして来ておった。そういう心行をさせて頂く時に、今度はその心行させて頂いておる間に、心の中に頂くところの信心の喜び。
絶えず神様は自分の心の中に頂くことが出来ることに、気付かせて頂くと同時に、今まで子供でもなそうと思えば成されるようなことを、疎かにせずに行の上に現していくという行をもって、合楽の行とするんだというここまでになった時に、これはお道の信心というよりもね、あらゆる全宗教のです宗教が求めて、求めて止まない境地というか。完璧の人間が助かるという事においての信心。神様が助かって下さるという事の信心。いわゆる合楽の信心。
そこに初めて完璧の域に入ったと、まぁ昨日の御理解を頂くと、勿論それは未完成のままに永遠に。その完璧になったのではなくて、完璧の信心に入ったんだから。これをいよいよ完璧にしていく生き方を身に付けて行くところから、今日の御理解を頂くとです、これが真の道である証拠に、必ず肉眼をおいて心眼が開けてくるということなんです。今まで難儀だなぁと思うておったことにお礼が言えれる。今まで腹立たしいことだと思うておったことが、反対に有り難涙がこぼれるほどになってくる。
そこに人間のいうならば真の幸せ。人間の幸福。そしてこれはあの世までも続く所の幸せであり幸福なのである。ただおかげを頂くと言う事だけではない。今日昨日からお参りしておられます、広島から親子で参っとられる方があります。胃癌です。この前一回参ってそして今日又お参りして見えて。夕べ一晩泊まって今朝の御祈念を頂いておられる訳です。ある宗教をしておられた熱心になさった。一家をあげてしておられた。その事の話しを私は、煎じ詰める時に話しを聞かせて頂いたんですけれども。
もうお先祖様さえ大事にすればよいという宗教らしい。先日からそのその教祖と言う方は女の方。それをもう皆んなは生き仏様と言う。まぁそういうおかげが皆んなに、本当に人が本当にやっぱり助かる、助けてもろうたらやっぱ生き仏様といわなおれんのでしょう。けれどもそういう時大変腹を立てなさるという話しを聞きました。あることがちょっと言うた事を間違えたらもうえらい腹かきなさる。だからね例えば助かるということだけならば、何様でも何々宗であってもです助かることが出来る。
いわば助からないとはいえないわけです。やっぱり。奇跡の一つ位が起きるわけなんです。けれども真の信心とは言えない。真の信心とは肉眼をおいて心眼を開かせて頂くということ。心眼を開かせて頂くと怒らなければならない様な事に、むしろお礼をいう。自分の心の寛大の心の中に治めて行く事が出来るのが、真の信心です。だから助かると言う事においては、あらゆる宗教がやっぱ人を助けるということに芯がおいてありますから、助かる宗教もあろうけれどもです。
自分の心の助かりというものが、ともなわないならば、それは真の信心とはいえない。なら自分の心の助かりと言う事は、真の道をいかなければならん。その真の道を明示してくれる人がないということなんです。真の道を教えてくれる人。これが絶対の真の道だよと教えてくれる人がない。そこで今合楽で言われるこれが真の道だと、例えば私が申しておりますなら、その真の道に例えば長年稽古してきた、いうならそれを最近は、合楽理念とこういっておる。
何故成り行きを尊ばねばならないか。全ての事に御の字を付けなければならないかと。そういう例えば理論的なものにも、皆があらゆる角度から稽古をしてきとるからそれが分かる。曲りなりにもその事を行じてきた。そこで今度は心行をとるの伴うたね、成そうと思えば子供でも成せる様な事を、疎かにしてきておったその事に取り組んでおかげを頂く時に、水も漏らさぬおかげが頂けるように、段々なってきたというんです。心行がいわれるようになって、いわば合楽のもう毎日毎日奇跡の連続です。
もう水も漏らさんようなおかげになってきたわけなんです。そこでなら銘々の手元のところでもやはり、そういう信心を身に付けるということは、もう楽しゅうして有り難うなってこなきゃならんのだ。そんなに難しいことじゃない。私昨夜、夜中にここへお礼に出てまいりました時に、大体合楽の使命。いうならその芯であるところの大坪総一郎、私の使命というのは、どこに焦点をおいたらよいだろうかと、御祈念中にふっと思わせて頂いたら、行き詰まってどうにもならないでおる人に向きを変えさせること。
もうこのまま行きよったら必ず行き詰まるという人に、向きを変えさせる事と。一言頂きました。もう例えば金銭なら金銭、病気なら病気でももう医者から手を放された。現在の経済状態はもうどうにもぎっちもどうにも出来ない。いわゆるこれが行き詰まったというのです。その行き詰まったという人にいうならば回れ右をさせる事。又は今のままでいきよったら、必ず行き詰まるよという人がもう世の中にはいっぱいなんです。
信心はない。今は商売調子がよいと。おかげで家庭も円満で元気である。健康、経済。全ての点にめぐまれておる。けれどももし私が肉眼をおいて心眼をもって、その人の姿を見た時にです、はぁそれこそ一本橋を渡っておるように危ないものである。そういうこのままいきゃ必ず行き詰まるという人が、どのくらい沢山あるか分からない。なら信心頂いておってもそうなんです。合楽にまぁご縁を頂いておってもそうなんです。私がいうことを聞かん、数えたらおかげおかげにようておったんではです。
このまま行きよったら必ず行き詰まるよという、又は行き詰まっておるという人に、回れ右をさせるところに合楽の使命、いわゆる私の使命が、私はそれを頂いた時にもう今まで感じておった、その使命感と行ったようものの重さというなら、もう本当に借金の思いでおったのが、もう千言も万言もというような思いで、今朝から私はもう感動でいっぱいなんです。私にはそういう使命があるんです。いわば使命感に満ちた生活。それもね間違いのない事に。
いわゆる今日の御理解でいうと真の信心。真の道をいく人は肉眼を置いて心眼を開け、心の眼を開いた人。真の道心の眼が開く事の為には、なら真の道をいかなければならない。その真の道がこの様に間違いなく、明示されておるというのが、今日合楽の信心なんです。もう本当にもうそりゃ今日の、今日の御理解な御祈念なんかでもね、親教会の記念祭の事を思わせて頂いておった。合楽から百名お参りする事にお届けがしてある。
ほんに百人参りなんていわずに、本当あの狭いお広前ですから、二日間にご大祭をされて一日は合楽で一杯にするようなおかげを頂かなければ、嘘だなと私は思うたです。例えばならあそこに二百名の者がいったらもう、溢れるようになりましょうね。だから合楽の人達がその気になったら出来る事でしょうが。一日は三井教会でお大祭をなさる。明くる日は合楽の信者全部で二日間に渡って、ご大祭が続けられるようなおかげをこの次の記念祭には、一つそういうおかげを頂かなければならないなと私は思うたです。
思うたら神様からね、ご本部に今四日のご大祭がありましょう。それを五日にして、一日は合楽団体で、あの会場が埋まってしまう位なおかげを頂くように、祈り願えと言う事を頂きました。私はもう途端にこう心が大きくなってね、ほんなこつ考えてみりゃ2万人おりゃ、あんたあそこが一杯になるとじゃから。世の中にどれ位難儀な人が一杯満ち溢れておるか。その満ち溢れておる人達がです、合楽にお手続きを頂いて、そこに助かると言う事になったら、これは2万人も夢ではないと私は思うです。
さぁばってもう大阪当たりの月参りが二千人もあるちゅうて、たまがっとったばってんそげな段じゃなかです。合楽に掛けられる神様の願いというものは。親教会の記念祭はですこの次には合楽で一杯にしよう。そして二日間のご大祭にして頂こうと思うたら、神様の願いはそんな細い事の考えとく考えるなち。今の調子で本当に真の道の入るいうならば完璧の域に入ったと言われる合楽の信心を、いわゆる完璧を目指して私共が信心修行に取り組んでいくならば、しかもそれが水の行せにゃならんとか火の行せなならん。
夕べも私こう回ったら、正教君が一生懸命大祓い信行やってるんですよ。毎日毎晩やってます。だから12時までも、1時までもやるもんだから、朝大事な時間に眠ってしまうのです。だからもうそげな修行をするなという、神様がこの頃仰るのですから。大祓い信行はこれはしなきゃならない。神様が生き生きとして下さる事の為に、自分の心の中の神が生き生きしてくるために。大祓い信行しなきゃならんけれども十巻なら十巻。もうすこし早い時間に9時に夜の御祈念が終わるのだから。
10時なり11時までには終わるような修行をさせてもろうて、ぐっすり休ませて頂いて、朝の一番大事な時間に眠気どんがくるような事のない、工夫をしなければいけない。というのが今の合楽の信心です。いうならこんなに楽しゅうて楽な信心に、いわばなってきたんです。だからそげな楽な信心しよったんじゃおかげは頂かれまい。というのではなくて、そういう楽な信心に切り替えた途端に、合楽の御比礼は輝きだしたでしょうが。そのいうならばまぁ今日私がいう、真の信心と真の道という。
そこには必ず真のおかげが現れなければ嘘だというのです。これが真の信心だ。これがもう完璧の域に達したな。と言ったって完璧なおかげが現れてこないならば、そりゃおかしいです。そこでです私は今日、日頃持っておる、それはこれは大坪総一郎、私には天地の親神様、金光大神のお取次ぎによって、大変な願いがかけられておる中。合楽教会にかけられる願いというものは大きい。まぁその程度には思うておったけれども、今日の私は御理解を頂きながらです。
これはとてもとても今まで感じておったようなものではない。そのいわば千斤かそこらぐらいの、いわば重さで感じておった使命感が、それこそ千斤もも万斤もと言う様な思いで、私の心の中に今日はいわばたぎっております。そこにです私だけがそういう使命感に燃えておったんでは出来ん。そこでなら皆さん一人ひとりがです、その使命感を今日はね、ここのところを一つ分かって頂きたいんです。
合楽によられたらキリスト教的に言いますね。キリスト教の信者はいうならば世界のまぁ素晴らしい人達を、よりすぐったんだと選民といってますね。合楽に御神縁を頂いた限りそういう真の信心を、皆に分からせて頂く為に皆さんにも真の信心を教えて、完璧な域に入ってその完璧の目指して、もうこれを歩いてさえ行けば間違いないという生き方。例えば金光が中心であるならばです、東京の人達ならば、西下してこなければならない。西の方へ下ってこなければならない。
九州の人が金光を目指すならば、東の方へ上っていかなければならない。それに東の方へ上っていかなければならんのに、西の方向いていきよってんなさい。そりゃ鹿児島しかいかんですよ。それは真の道が分からんからそういうことになるんです。東京の人が金光へ、金光へと行きよるつもりでもあるけれども、これが真の信心と思うておるけれども、反対の方を向いてさっさといきよるから、北海道さえどん行く訳です。例えば向きをかえるということはそんなに素晴らしいことなんです。
本当のことはこの道だよと。本当の道はいうならば九州からならば、東の方をむいていかなければいけないよと、これをはっきりなら明示してしかも確信を持って、私は皆さん達に聞いて頂いておるわけなのです。だからここで道を変えなかったらね、そして本気でやるぞという気にならなかったら、おかげは頂かれない。たった一日参ってもうそれこそ医者も手を放して、もう医者も手がつけようがない。その痛み苦しみがたった一回お参りしたきりでおかげを頂くですね。
あの権兵衛が種まきの御理解を頂いた方なんです。日田の森山さん。レストラン日田というお店の主人公です。ところがそれこそ嘘のようにおかげを頂いた。なるほど帰った日は何時もにと倍する苦しみであったそうだけれども、金光大神も今日覚えたばかりの金光様のお名前を唱え続けて、そしてそのまま眠って明くる日目が覚めた時にはもう実に壮快だった。て又痛んだりしたりせんじゃろうかと思うておれば、一日中おかげでそれが痛まずに済んだ。明くる日もおかげで痛まずに済んだ。
もうそれこそその喜びというものは、もうそれこそ天にも上るような思いで、なからなければ、自分の転々としたその、病院で病室で一緒に苦しんでおる人達に、話して回った。こげな素晴らしい神様がござるです。こういう有り難い信心があるです。私がこげんおかげ頂いたからという話をして回ったら、皆の病人さん達がそげんところがあるなら、どうでも私も一遍ぜひ連れてまいってくれという事になって来た。やはりおかげを受けなければね、それを人に伝えて行くことも出来ません。
だからおかげを受けるということはね、神様が使命感にたって難儀な氏子に取次ぎ助けてやってくれという、神様の願いのようなものなんです、おかげというのは。本当毎日広大なおかげ頂いております。なら広大なおかげを頂いておるという事をです、いうならおかげを引っ下げて、世の中に難儀をしておる人達にそれを伝えて行く。そのためにおかげを頂かせて下さいという事になるんです。
私を助けて下さい助からせて頂いたら、この命のある限りあらぬ限りを、私と同じ悩み苦しんで苦しんでおる人達に、それを伝えずにおきません。とそこに使命感が生まれてくるわけです。だからまずおかげを受けたなからいいければいかんです。だからそのおかげを受けるためには、私はこれが完璧の信心だと。これが真の信心だ真の道だとなら、いっておるそれが大変茨の道であるとか、火の行水の行を知らんと言った様な事ではなくて。実にいうならば楽しゅう出きれる信心。
神様を信じたら、もう成り行きを大事にしていくと言う様な事は、本当に楽しい事なんだ。有り難い事なんだ。その楽しい有り難い信心にです、いよいよ心行をとものうて、今まで疎かにしてきておった、いわば雑な所をです目細うそこを頂いて行くということ。いわゆる一日中が信心にいわば先日からね、もう信心にかかりきらにゃいけんと言う事です。信心に掛かり切ると言う事は、ずっと参っとかんならんと言う事じゃなくてです、自分の心の中に神様に頂き続けるという心行し続けるということ。
心行を心の中にさせて頂いておる時に、もうあだや疎かには出来ません。曲がったことは出来ません。これを真っ直ぐしていかなけえばおられんのが心行です。そういう信心になる時にです、今合楽で現われておるようなおかげが、皆さんの一人ひとりの上にも現われてこなければならん。現われてきよらんならば、まだ私のいうことを聞きよらん証拠だと思うて間違いないです。それもなら難しい事を言っとるのじゃないからいわば、真の信心のいうならば、域に皆さんが一歩足を踏み入れて。
そしてこれを進んでさえいけばです、間違いなしに、ならねここから金光を目指せば、金光へ一歩一歩近づいて行く事ができるんだと。世の中に難儀な人達がある。私の使命というのは、世の中に一杯の難儀を抱えておって、もうどうにもこうにも出来ない。というほどしの人達が、向きを変えることの、いうならばすべを道を教えるところに、私の使命がある。行き詰まってはいなくても、あの今の調子でいきよるなら、必ず行き詰まるぞという人達に回り右をさせる使命がある。
そういう使命感にたってです、いよいよ真の道を進めていこう。そこには必ず肉眼を置いて心眼が開けて来る。その心眼が開けて初めて人間の幸福と。今まで困ったことだと思うておったことが有り難いことに気付く。分かるんですからそこに幸福がある。だから全宗教が人を助けるというような事が、例えば宗教であるとするならばです、銘々のその宗教であっていいけれども。
ギリギリの処は、合楽理念を元にして、一日の生活をいわば、心行と共に信心生活をさせて頂くと言う様な、口外一つもうけられる時に、全世界の宗教が生き生きとしていき、本当の人間の助かっていく、それをいうならば、和賀心時代をいよいよ広げていかなければならんと、言う事になります。いよいよ合楽示現活動に参画すると言う事は、そういう使命感にたっての、それでなからなければならないと言う事なんです。自ずと生まれてくる使命感。世の中にはそれこそ何人。
それこそ結構けだらけのようにして生きておる人達の、姿をし肉眼をおいて心眼をもってみたならばです、それこそ一本橋を渡っておるように、危なかしゅう見えるのです。その人達に導かなきゃいけない、その人達を振り向かさなければいけない。そして回り右をさせなければいけない。いよいよ行き詰まってどうにも出来ん、もう自殺するより他なかと言う様人もありましょう。だからそういう行き詰まっておる人にです、回り右をさせるところから、またこちらには広々とした道が開けてくるのです。
そういう道を歩かせれば、おかんとか止まんというその心がです、まずは自分自身がおかげを頂かなければ出来ない。日田の森山さんが、一日参っただけでおかげを頂いて、そしてその明くる日は、その病院を回ってこういうおかげの受けられるところがあると、いうて回っておるようにです、そこに自分の例えば飲んだ薬が効いたならばです、同病に苦しんでおる人達、この薬が効いたといわなければ居られない様なもの。それを私は使命感にたっての、合楽示現活動に参画するという風に今日は聞いて頂きました。
「真の道を行く人は、肉眼をおいて心眼を開けよと」仰るが、これは大変に難しいこと。けれども真の道をにいけば真の道を歩いていけば、必ずその後から心眼が開けて来るということを今日は聞いて頂いた。そこで真の道とはというて今まではね、手探り的な信心をしよったのがです真の信心とはこれだ、とここに明示されたわけですから。その真の道を、真の信心をせずにはおられないという、信心の情熱を燃やしてね、おかげ頂いていかなきゃならない。
もう世の中から病気をなくしてしまわなければいけない。世の中から貧乏というものをなくしてしまわなければいけない。世の中から争いというものをなくしてしまわなければならない。いうならば貧争病のない世界をいよいよ開けていかにゃならん、ためにはまず私の心から、私の一家から私の周辺からそれを広げていかなければならん。そういう使命感にたっての信心を頂きたいと思うですね。
どうぞ。